不足を知るということ
人間の欲望に際限はない。
放っておけばずっと足りない何かを求め続ける。
特に今、モノも欲求も飽和状態にあるこの社会で何かしらの満足を得るというのは難しい。
ごく普通の人々でさえそうだ。
心に闇を抱えた人間にとっては言わずもがなだろう。
メンヘラというのは本当に悲しいものなのだ。
しかし、タイトルにある「不足を知る」ということを考えると、少し捉え方が変わってくる。
そもそも、
不足の逆、つまり満たされるということは相対的な感覚だ。
何かが足りないという「不足ありき」で発生する感覚だ。
不足によって満足が生まれるという逆説的な話だ。
そう考えると、深い意味での「満たされた感覚」というのは、より不足を知っている人にのみ理解できると言えるのかもしれない。
ところで不足を知っているというのは、どういうことだろうか?
俺の考えでは、それは究極的には愛情の不足のことではないかと思う。
どんな人に愛情が不足しているのかというのを考えると、つまりそれはメンヘラだ。
メンヘラになるかどうかは、ほぼすべて幼少期の経験で決まる。
(成長した後に経験したことでメンヘラになったと思っている人はこう考えてみよう。
思春期や成人後にあなたを傷つけた人がしたことと同じことを別の人がやったとしよう。そうしたらあなたはどう思う?
たぶんあなたは同じように傷つくはずだ。
それはつまり、その人だから傷ついたのではなく、その行為によって傷つけられたに過ぎないということだ。
それに対して幼少期の傷というのは、ほとんどが親の影響によって生まれる。
別に他の人が何かをしても、そこまで傷が残ることはない。
それは親が子供にとっての安全基地の役割を果たすからだ。
子供にとっては親に傷つけられるというのは、言い換えれば安全基地を脅かされることになる。
この安全基地を脅かされるということがとても大きなストレスを子供の心に与えるので、幼少期に親によって傷つけられたことの影響はとても大きいのだと言える。
詳しくは、岡田尊司の「愛着障害〜子供時代を引きずる人々〜」という本を読んで欲しい。この本マジでいいから!!)
幼少期の経験により愛情の不足をより強く感じているメンヘラは、普通の人と比べてより不足を強く感じている。
だから、その不足が満たされた時の幸福は何ものにも代えがたい大きなものになるのだ。
現に俺と妻は今とてつもない幸福の中にいる。
振り返ってみるとこの幸福は、幼少期から続く慢性的な虚無感と深い悲しみと怒りと孤独の中から生まれたのだと思う。
そうとしか言いようがない。
そう考えると、自分に精神疾患の傾向があることも妻が辛い経験をして来たことも、報われるような気持ちになる。
自分が妻を深く理解し、妻が俺を受け入れてくれることがとても素晴らしいことだとより強く感じられる。
幸福は、不足を知っていることによってより深くなるのだ。
もしあなたがとても大きな苦しみを抱えて生きているなら、いつか幸せを掴む時にはその幸せは普通の人が思っている幸せとは比べ物にならないほど大きなものになる。
これだけは本当に断言できる。
だから、まだ諦めないで欲しい。
とりあえずはその苦しみを生き抜いて、何かが手に入れられるまでもがいてみて欲しい。
そうしたらその時には今日俺が書いたことの意味がわかると思う。