kenjunsan’s blog

メンヘラと呼ばれる人へ

メンヘラな妻の育て直しについて

俺は妻の親をやっている。

ここでいう親というのは、父親としての役割だけではなく母親としての役割も含んでいると思う。

今日は妻の服を買うために、2人で買い物に行った。

今日の妻は、しきりに服を買うのが苦手だと言っていた。

服を見ることは好きなのに。

でもいざ買おうとすると、自分が何を欲しいのかわからなくなってしまうのだそうだ。

そして、人にどう見られるかとか、流行りはどうだとか、店員にこう勧められたからとか・・・。

そうやって周囲の目を気にしながら服を選ぶことが多かったそうだ。

まあある程度その時の流行を取り入れながら服を選ぶのは悪いことじゃない。

ただ、流行に流されるあまりに自分がこの服いいなと思った気持ちを押さえ込んでしまうのはあまり良い傾向じゃない。

やっぱり本人も色々気にしながら選んだ服は、結局家に帰ってから「なんか違うなあ」と思ってしまい、あとで後悔することがよくあったそうだ。

服を買うことに限らず、何かを決める時に自分の意思を押し殺していると、心にはだんだんストレスが溜まっていく。

人の顔色を伺う傾向が強い人は、自分の意思が通らないことを当たり前のことだと思っていることが多いので、そのストレスにも気付かないことが多い。

この辺りが今日のメインテーマになる。

 

どうして人の顔色ばかり伺ってしまうのだろうか?

その原因は多くの場合、幼児期に親の意向と違うことをして拒絶された経験や叱られた経験にある。

小さな子供にとって、親は外界の脅威から自分を守ってくれる防波堤のような存在である。

だから、親に拒絶されるというのはその防波堤がなくなってしまうということを意味するので、子供にとって非常に大きなダメージになる。

たとえば、いたずらをしたから叱られるというケースのような、「いたずらをした」という行為を怒られるのであればいい。

なぜなら、いたずらをしたという行為が悪いのであって、その子供自身が悪いというわけではないからだ。

つまり、子供にはしっかり逃げ道が残されている。

子供はいたずらをしたから叱られたのだと理解できるので、それ以降同じことをしなければ叱られることはないのだということもわかる。

それにいたずらを叱るというのはあくまで子供に対する教育の一環として必要なものだ。

 

※以下ちょっと余談

(ただし、たとえ子供が悪いことをしても感情的に怒るのはNG。ヒステリックにわめいたり怒鳴ったりした時点でそれは教育ではなく自分の一方的な感情を押し付けているだけの行為になってしまう。子供には、怒鳴っている時の親が親自身の気持ちを優先していることぐらいわかる。そんなやり方で親都合の教育を押し付けたら子供は自分自身を正常に愛することが難しくなる。子供がどんなに悪いことをしても、なぜダメなのかということをしっかり説明するのが重要だ。それを放棄して自分の感情をぶつけることを優先するなら、それは人の親とは言えないだろう。この辺りは難しい話だが、少なくとも人として良い人というのと良い親というのはまったく違うものだと思う。)

余談終わり

 

しかし、この時の「良い」「悪い」の基準が親のその時の気分によって変わってしまったらどうだろうか?

これはまさに先日書いた一貫性の問題だ。

(↓これ参照)

http://kenjun.hatenablog.com/entry/2018/05/15/202224

ほとんどの場合メンヘラの親はこの問題を抱えている。

子供に対して一貫した態度が取れない。

まあ、メンヘラの親もメンヘラなのだ。

一言で言えば、気分の浮き沈みが激しい。

だから、言うことがその時の気分によってコロコロ変わるので、子供はどうすればいいかわからなくなる。

そして親の意向通りに振る舞えなかった自分を責めるようになる。

で、これが冒頭の妻が服を買う時の話につながる。

 

実際妻の場合は、特に母親の方にその傾向が強かった。

妻のお母さんは年齢を感じさせない若々しさを持っている。

よく言えば感性が若いと言えるが、別の言い方をすれば年齢よりはだいぶ幼い。

まさに感情の起伏が激しいタイプだ。

気分がいい時は普通だが、機嫌が悪い時は小さなことでわめいて怒ったりする。

それで妻は幼い頃から母親の顔色を見る癖がついてしまったようだ。

それに加えて、お父さんがお母さんを泣かすのをよく目にしていたので、妻は「自分がお母さんを守ってあげなきゃ!」という強い思いを抱くようになった。

こうした妻と母親との関係は、共依存的とすら言えるかもしれない。

 

この問題は突き詰めていくと、主体性という問題に行き着く。

つまり妻は、自分で自分のことが決められない。

自分の生きたいように生きられないのでは、相変わらず生きづらさはずっと残り続けることになる。

それではいくら妻の心を救っても意味がないと俺は思った、とても強烈に。

俺自身は、自分の人生は自分で切り拓いていくしかないと考えている人間だ。

たとえどんなに親やその他の人々の影響を受けて育ってたとしても、自分の人生の責任を取れるのは自分自身だけだからだ。

言い方を変えると、決して誰かのせいにせずに自分の人生の責任は自分自身で取るスタンスで生きていれば、自分の思い通りに生きられると思っている。

そこで俺は妻と接する中で「育て直し」をすることにした。

それによって妻の傷ついた自信を取り戻し、正常な自己愛を手に入れて、自分自身の足で立って歩けるようにするためだ。

可哀想な自分という自意識にすがりつくことなくありのままの自分でこの世界と相対することができるようにするためだ。

 

ここで言う「育て直し」というのは文字通り、妻が赤ちゃんだった時から今に至るまでの人生を、俺が親役をやることでやり直していくということだ。

それによって、妻がもう一度大人になる機会を手に入れられればいいと思った。

もう始めてから一年くらい経ったかな。

やっていることは、

・日々の生活の中で妻が良いことをしたら大げさに褒める。

・悪いことをしたら叱る。

・その行為がなぜ良いか、悪いかを説明する。

・妻自身が何をしたいかを一番最初に聞く。

・自分の意思を持つように諭す。

・成功体験を積ませる。

・失敗しても大丈夫だということを教える。

・チャレンジを恐れていたら背中を押す。

 

そんな感じだ。

そしたら今日、妻は最初のうちは冒頭に書いたように自分の判断で服を買うことを怖がっていたが、最終的にはしっかりと自分が納得できる服を買うことができた。

店員としっかりコミュニケーションを取って自分の要望を伝えることもできるようにもなっていた。

まだ俺が一緒にいない時には不安もあるようだが、あらゆるものから逃げていたかつての妻からすればものすごい成長だと思う。

最近本当に以前よりも躊躇せずに自分のやりたいことをやれるようになっているので、俺としてはとても嬉しい。

2人の中では、この調子で妻が自分の中のインナーチャイルドとうまく折り合いをつけられるようになったら1人目の子供を産む予定になっている。

 

ちなみに親としての役割を果たすということは親の役割をする俺にとっても意味のあることだったようだ。

先日ちょっと紹介した「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」という本の中で、自分が欲しかったものを他人に与えることが自分の心の穴を塞ぐことにつながるという話が出てきた。

俺にも父性や母性の欠如があるので、妻の親の役割を果たすことで自分の心の穴を塞ぐことになっていたのだ。

妻が俺を愛してくれることでとてつもなく救われているということも含めて、お互いがお互いにとって良い影響を与え合っているなあと思った。

それを強く感じられたので、今日も一日がとても幸福な気持ちで終えられる・・・。