kenjunsan’s blog

メンヘラと呼ばれる人へ

メンヘラと生きづらさ

メンヘラは生きづらい。

生きてるだけで苦しいのに、味方なんていやしない。

でも基本的には人間ってのはみんな孤独なものだ。

だから何かに依存しなければ人は生きていくことができない。

そして、ふつうの人は自分に依存できる。

なにか思うようにならないことがあっても、ふつうの人はふつうこうやって折り合いをつける。

「たしかに自分はいろいろ苦手なことがあるけど、こういうすばらしいところもあるんだ!だからこんな自分もそんなに悪くない。」

だけどメンヘラはそうじゃない。

自分に依存なんてできないからだ。

自分がだいっきらいだからね。

自分に依存するなんて自分大好きなやつみたいでキモいとか思った?

でもふつうの人にとってはそれがふつうなんだよね。

表には出さなくても、みんな自分のことはそれなりに好きなんだよ。

だけど、メンヘラの場合いつでも心の中で自分を否定する言葉が飛び交っているから、それがわからなくなっちゃうかもしれない。

とりあえず、その状況はあなたの心にとって異常事態だってことに気づいてほしい。

そうやって自分を責めてると、どんどん心に毒が溜まってしまう、

そしたら泥沼にはまったみたいに、つらいことから抜け出せなくなってしまう。

 

ストレスを感じたら自傷行為をすればいいの?

でも、そうやって自分を傷つけているあいだに、あなたはもう戻れないところに自分を追いやっているんだよ。

それじゃあいつまでたっても苦しいままだ。

じゃあどうすればいいか。

それは自分を許すことだ。

ほんとうにつらいのは他人に笑われることや傷つけられることじゃない。

自分で自分を笑うことや傷つけられることのほうだ。

他人にされたことなら悪いのは他人だし、なにか言われてもその場から立ち去ったりすること逃げることができる。

でも自分で自分をいじめているときにはどこにも逃げ場はない。

誰も味方をする人はいないから、心は直接傷つけられてしまう。

そうやって自分をいじめる癖がつくと、他人にバカにされた時などにも他人の心無い言葉といっしょに自分自身を傷つける言葉を心の中でつぶやいてしまうようになる。

そうなると日常的なストレスも格段に増えるので、より精神は不安定になってしまう。

 

 

できることはストレスを減らすことだ。

自分を責める人も24時間365日ずっと責めまくってるわけじゃない。

誰かに自分がダメだと思わされたときに自分を責める思考をするのだ。

だから、その自分をダメだと思わせる原因と距離を置こう。

その原因は多くの場合親だから、親が自分の行動を制限しようとしたり、親の考えに無理やり従わせようとしてきたらまっさきに逃げよう。

グダグダ言わずにとりあえず家を出よう。

そして、連絡も断ち切ろう。

育ててもらった恩とか、金銭的な負担をかけてきたとか、いろいろ負い目はあるだろうけど、そんなのあなたのこの先の人生と比べたらちっぽけなものだ。

もし親孝行がしたいと思うのなら、自分がちゃんと自分を愛せるようになって精神的に自立できてからにしよう。

そうなる前に接触してもけっきょくは自分にとって足を引っ張らえるようにしかならないから、ここは心を鬼にするしかない。

 

で、なんでこれほどまでに親から離れろって言うのかというと、もうぜんぶメンヘラの苦しみの原因は親にあるからだ。

精神的な安定は、幼少期に親と安定した関係を築くことによって生まれる。

精神が不安定なのは生後間もなくから5歳くらいまでのあいだに何かしら親の言動が親としていたらなかったからなのだ。

このあたりのことはこれらの本を読んで!

(017)母という病 (ポプラ新書)

(017)母という病 (ポプラ新書)

 
愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)

 

 

親がこどものありのままを認めてあげられないと、こどもは自分のありのままを愛せなくなる。

あなたの人生は親ではなくあなたのものなのだから、まずは自分の手に自分の人生を取り戻そう。

それが幸せになる第一歩だ。

 

そして第二のステップは、安全基地を手に入れることだ。

これは明日書いていく予定。

 

ここまで読んでくれてありがとう。

ではおやすみなさい。

「かわいい」という病

この社会はイかれてる。

みんな病気だ。

テレビでは毎日毎日"かわいい"が量産されている。

SNSが流行り始めた時も、場所が変わっただけでやってることは何も変わらなかった。

そして、学校という小さな小さなコミュニティの中で、社会が作った"かわいい"という概念を基にしたヒエラルキー(階層)が出来上がっていく。

子供たちは義務教育や家庭の中で主体性を奪う教育をされているので、自分の頭で考えることを知らない。

それに加えて正常な自己愛や自尊心を持つことの重要性も教えられていない。

だから、社会が一方的に押し付けた多くの間違った価値観を鵜呑みにしてしまうのだ。

その最たるものが"かわいい"だ。

若い女の子の8割くらいはこのイかれた価値観に苦しめられているだろう。

SNSをちょっと見れば、自分の顔が嫌いだの、ブスだの、キモいだの、そんな怨嗟の声が溢れている。

こんなのおかしいだろ?!

女だけでなく、男だってそうだ。

馬鹿な男ほど、気軽にブスブス言いまくる。

 

こうした雰囲気を積極的に作っているメディアは本当に醜いと思う。

例えばドラマを見ていると、合コンの席で女性たちが男性側の到着を待ちながら話しているシーンがあった。

その会話が酷かった。

その女性たちはイケメンのことしか頭にない様子だった。

いざ男性たちが到着すると、リーダー格の年長の女性が歓迎のムードで男性たちにどうぞどうぞと媚びていた。

文章で書いている分には伝わりにくいと思うが、とても不快だった。

この女性たちは恋愛以外に大事なものはないのか?

この映像はあまりにも女性を馬鹿にしているんじゃないのか?

恋愛以外にもこの世界には楽しいことや幸せなことはたくさんある。

この映像は、それら全てに大した価値はないと言っているように見えた。

そしてこういったメディアが押し付ける価値観が、若い子たちにとっての毒になっているのだと感じた。

 

ほとんどの若者が、見た目だけで人の価値が決まると思っている。

そんなものは、大人たちがしっかりと子供の中身を育ててあげられないから起こっていることだ。

人の価値を見る目がないから人を見た目で判断する。

要するに思考停止している。

人の価値についても自分の価値についても、一切考えることなく最初から放棄している。

だから、一番わかりやすい見た目にばかり目がいく。

 

でもな、人にはもっと色々な面があって、醜いところも素晴らしいところもいっぱいあるんだよ。

人間というのはもっともっと深いものなんだ。

絵が上手い人も、文章が上手い人も、話が上手い人も、走るのが早い人も、計算が得意な人も、いっぱいいる。

そして、苦手なこともいっぱいある。

片付けができない人も、運転が下手な人も、人の気持ちを汲み取るのが下手な人も、人に媚びる人も、いっぱいいる。

見た目なんてそうした個性の中の一つでしかないんだよ。

それだけで人を判断するなんてこの上なく心の貧しい人間のやることなんだよ。

自分のことも他人のことも、もっとよく見ろよ。

自分がいなくていいわけではないし、他の誰かがいなくていいわけでもないんだよ。

自分がいなくていいと思ってるから、他人のこともわからないんだよ。

もっと人の心の奥底を見ろよ。

自分も他人も。

苦しい気持ちもつらい気持ちもいっぱいあるよ。

でもそれだけじゃない。

楽しい気持ちも幸せな気持ちも、それがたとえほんとちょっとだとしてもあるんだよ。

それも全部掘り起こしてみて、その中にある自分の痛みに触れてみろよ。

痛みに触れたら涙が出るよ。

それが心なんだよ。

その痛みが他の人にもあるんだよ。

それをわかるっていうことがこの世界で最も幸せなことなんだよ。

 

苦しみがわかる。

あなたの苦しみがわかる。

それがとても幸せなことなんだよ。

あなたが相手を理解できたなら、相手もあなたを理解しようとする。

それを幸せと言うんだよ。

 

わかり合うことの喜びと比べたら、他のことなんて全部ちっぽけなことだ。

自分も他人も否定する必要はない。

あなたはあなたでいいんだよ。

他の人は関係ない。

親も兄弟も友だちも先生も上司も彼氏も彼女もぜーんぶ関係ない。

誰もいなくたってあなたの人間としての価値はなくならない。

誰がなんと言おうとそれは変わらない。

自分の味方ができるのは、究極的には自分だけだ。

まずは自分の味方をちゃんとしよう。

そしたら次は人を理解しよう。

ちょっとずつでいい。

ちょっとずつ自分を受け入れよう。

そして人を尊重しよう。

でも嫌なものは嫌だ。

だから、はっきりと拒否の意思を示そう。

つまり、必ずしも人を全面的に受け入れる必要はないということだ。

そして、まずは自分の心が安定させることが大事だ。

他人のことは余裕がある範囲でやればいい。

そして、人のために自分を犠牲にするのはダメだ。

そういうのは、自分自身を本当に愛している人がやることだ。

自分のことを本当に大事にして、その上で人を大切にしよう。

自分を大切にすることが欠けていたら、人に大切にされることも難しいからね。

まずは自分自身を大切にね。

 

 

 

さて。今日も長々とした文章を読んでくれてありがとう。

この文章を書いていたら妙に熱くなってしまって、常々自分が思っていることを書き殴ってしまった。

正直自分が嫌いな人に自分を大切にしろなんて無理な話だとは思っている。

でも、苦しんでいる人に少しでも俺の言葉が届けばいいと思っている。

俺は基本的に性悪説に立って世の中を見ているけど、人が嫌いではないからね。

人に希望を持っているんだよね。

みんな同じような希望を持ってくれたらいいんだけどね。

まあなかなか難しい話だ。

少なくともこれを読んで、自分自身の心や人との接し方を振り返ってみてくれたら俺がこれを書いたことの意味は果たされるな。

自分はこう思ったとかあればコメントしてみてよ。

そしたら俺もまたこう思うよってことを書くよ。

そうやって語り合うことで理解が生まれるからね。

ぜひビビらずに書いてみて。

メンヘラな妻の育て直しについて

俺は妻の親をやっている。

ここでいう親というのは、父親としての役割だけではなく母親としての役割も含んでいると思う。

今日は妻の服を買うために、2人で買い物に行った。

今日の妻は、しきりに服を買うのが苦手だと言っていた。

服を見ることは好きなのに。

でもいざ買おうとすると、自分が何を欲しいのかわからなくなってしまうのだそうだ。

そして、人にどう見られるかとか、流行りはどうだとか、店員にこう勧められたからとか・・・。

そうやって周囲の目を気にしながら服を選ぶことが多かったそうだ。

まあある程度その時の流行を取り入れながら服を選ぶのは悪いことじゃない。

ただ、流行に流されるあまりに自分がこの服いいなと思った気持ちを押さえ込んでしまうのはあまり良い傾向じゃない。

やっぱり本人も色々気にしながら選んだ服は、結局家に帰ってから「なんか違うなあ」と思ってしまい、あとで後悔することがよくあったそうだ。

服を買うことに限らず、何かを決める時に自分の意思を押し殺していると、心にはだんだんストレスが溜まっていく。

人の顔色を伺う傾向が強い人は、自分の意思が通らないことを当たり前のことだと思っていることが多いので、そのストレスにも気付かないことが多い。

この辺りが今日のメインテーマになる。

 

どうして人の顔色ばかり伺ってしまうのだろうか?

その原因は多くの場合、幼児期に親の意向と違うことをして拒絶された経験や叱られた経験にある。

小さな子供にとって、親は外界の脅威から自分を守ってくれる防波堤のような存在である。

だから、親に拒絶されるというのはその防波堤がなくなってしまうということを意味するので、子供にとって非常に大きなダメージになる。

たとえば、いたずらをしたから叱られるというケースのような、「いたずらをした」という行為を怒られるのであればいい。

なぜなら、いたずらをしたという行為が悪いのであって、その子供自身が悪いというわけではないからだ。

つまり、子供にはしっかり逃げ道が残されている。

子供はいたずらをしたから叱られたのだと理解できるので、それ以降同じことをしなければ叱られることはないのだということもわかる。

それにいたずらを叱るというのはあくまで子供に対する教育の一環として必要なものだ。

 

※以下ちょっと余談

(ただし、たとえ子供が悪いことをしても感情的に怒るのはNG。ヒステリックにわめいたり怒鳴ったりした時点でそれは教育ではなく自分の一方的な感情を押し付けているだけの行為になってしまう。子供には、怒鳴っている時の親が親自身の気持ちを優先していることぐらいわかる。そんなやり方で親都合の教育を押し付けたら子供は自分自身を正常に愛することが難しくなる。子供がどんなに悪いことをしても、なぜダメなのかということをしっかり説明するのが重要だ。それを放棄して自分の感情をぶつけることを優先するなら、それは人の親とは言えないだろう。この辺りは難しい話だが、少なくとも人として良い人というのと良い親というのはまったく違うものだと思う。)

余談終わり

 

しかし、この時の「良い」「悪い」の基準が親のその時の気分によって変わってしまったらどうだろうか?

これはまさに先日書いた一貫性の問題だ。

(↓これ参照)

http://kenjun.hatenablog.com/entry/2018/05/15/202224

ほとんどの場合メンヘラの親はこの問題を抱えている。

子供に対して一貫した態度が取れない。

まあ、メンヘラの親もメンヘラなのだ。

一言で言えば、気分の浮き沈みが激しい。

だから、言うことがその時の気分によってコロコロ変わるので、子供はどうすればいいかわからなくなる。

そして親の意向通りに振る舞えなかった自分を責めるようになる。

で、これが冒頭の妻が服を買う時の話につながる。

 

実際妻の場合は、特に母親の方にその傾向が強かった。

妻のお母さんは年齢を感じさせない若々しさを持っている。

よく言えば感性が若いと言えるが、別の言い方をすれば年齢よりはだいぶ幼い。

まさに感情の起伏が激しいタイプだ。

気分がいい時は普通だが、機嫌が悪い時は小さなことでわめいて怒ったりする。

それで妻は幼い頃から母親の顔色を見る癖がついてしまったようだ。

それに加えて、お父さんがお母さんを泣かすのをよく目にしていたので、妻は「自分がお母さんを守ってあげなきゃ!」という強い思いを抱くようになった。

こうした妻と母親との関係は、共依存的とすら言えるかもしれない。

 

この問題は突き詰めていくと、主体性という問題に行き着く。

つまり妻は、自分で自分のことが決められない。

自分の生きたいように生きられないのでは、相変わらず生きづらさはずっと残り続けることになる。

それではいくら妻の心を救っても意味がないと俺は思った、とても強烈に。

俺自身は、自分の人生は自分で切り拓いていくしかないと考えている人間だ。

たとえどんなに親やその他の人々の影響を受けて育ってたとしても、自分の人生の責任を取れるのは自分自身だけだからだ。

言い方を変えると、決して誰かのせいにせずに自分の人生の責任は自分自身で取るスタンスで生きていれば、自分の思い通りに生きられると思っている。

そこで俺は妻と接する中で「育て直し」をすることにした。

それによって妻の傷ついた自信を取り戻し、正常な自己愛を手に入れて、自分自身の足で立って歩けるようにするためだ。

可哀想な自分という自意識にすがりつくことなくありのままの自分でこの世界と相対することができるようにするためだ。

 

ここで言う「育て直し」というのは文字通り、妻が赤ちゃんだった時から今に至るまでの人生を、俺が親役をやることでやり直していくということだ。

それによって、妻がもう一度大人になる機会を手に入れられればいいと思った。

もう始めてから一年くらい経ったかな。

やっていることは、

・日々の生活の中で妻が良いことをしたら大げさに褒める。

・悪いことをしたら叱る。

・その行為がなぜ良いか、悪いかを説明する。

・妻自身が何をしたいかを一番最初に聞く。

・自分の意思を持つように諭す。

・成功体験を積ませる。

・失敗しても大丈夫だということを教える。

・チャレンジを恐れていたら背中を押す。

 

そんな感じだ。

そしたら今日、妻は最初のうちは冒頭に書いたように自分の判断で服を買うことを怖がっていたが、最終的にはしっかりと自分が納得できる服を買うことができた。

店員としっかりコミュニケーションを取って自分の要望を伝えることもできるようにもなっていた。

まだ俺が一緒にいない時には不安もあるようだが、あらゆるものから逃げていたかつての妻からすればものすごい成長だと思う。

最近本当に以前よりも躊躇せずに自分のやりたいことをやれるようになっているので、俺としてはとても嬉しい。

2人の中では、この調子で妻が自分の中のインナーチャイルドとうまく折り合いをつけられるようになったら1人目の子供を産む予定になっている。

 

ちなみに親としての役割を果たすということは親の役割をする俺にとっても意味のあることだったようだ。

先日ちょっと紹介した「愛着障害 子ども時代を引きずる人々」という本の中で、自分が欲しかったものを他人に与えることが自分の心の穴を塞ぐことにつながるという話が出てきた。

俺にも父性や母性の欠如があるので、妻の親の役割を果たすことで自分の心の穴を塞ぐことになっていたのだ。

妻が俺を愛してくれることでとてつもなく救われているということも含めて、お互いがお互いにとって良い影響を与え合っているなあと思った。

それを強く感じられたので、今日も一日がとても幸福な気持ちで終えられる・・・。