kenjunsan’s blog

メンヘラと呼ばれる人へ

俺の中のメンヘラとあなた

今日は俺がメンヘラ的精神を獲得した経緯について書いていく。

 

以前から書いているように、俺や父や祖父は自己愛性パーソナリティ障害だ。

病院に行って正式な診断をされているわけではないので、ひょっとしたらこうしてここに書くことは家族であっても名誉毀損になるのかもしれないな(笑)

が、とても重要なことなので明記する。

断言する。

俺と俺の父と祖父は自己愛性パーソナリティ障害だ。

もしかしたらそのまた上の世代も、先祖代々みんな自己愛性パーソナリティ障害なのかもしれない・・・。

そう、自己愛の問題は遺伝するのだ。

(というか精神疾患全般)

と言っても、別に遺伝子の中に精神疾患遺伝子があるわけではない。

問題は、幼少期の経験というのが人の人格形成に多大な影響を与えることだ。

精神疾患を抱えた親が子供を育てると、幼少期の子供にとても辛い経験をさせるので、その子供も精神疾患を抱えていくことになるということだ。

 

ここで本題に入ろう。

幼少期のこと。

父親は俺の失敗を頻繁にバカにした。揚げ足を取るというのが多かったように思う。

「馬っ鹿だねっ!!」

というような非常に軽い感じだったように思う。

なにか言い返しても、父親は自分が正しいと譲らない人間なので、異論は認められなかった。

それから俺は、失敗を極端に恐れるようになった。

なにかミスを犯したらまた揚げ足を取られ、馬鹿にされるからだ。

慎重によく考えて行動するようにした。

相手の意向をよく考え、それに沿った以外の行動は極力採らないように気を配った。

だから父親が何かを言っても一旦考える癖がついた。

しかしそれも父親の気に障るようだった。

事あるごとに父親は俺に本当のことを言えと迫った。

いつも本心を語ることを強いられてきた。

だから考えた。考えに考えて、その場の最適解を父親への返答とすることにした。

それにもやはり、父親は不満があるようだった。

今度は直感に従えと言われた。

しかし、自分の直感に沿った考えで答えていては、父親が望む答えにはならなかった。

だから考えた。

いつもそうだった。

それなのにまた否定だった。

その繰り返しである。

 

他にもこんなことがあった。

俺は幼少期から今に至るまでずーっと集団行動がとても苦手な人間だ。

あれは幼稚園に通っている頃だったか、小学校に入ってからだったか。

俺は集団行動ができず集団に馴染めなかったので、同年代の子供から嫌われることが多かった。

その俺を嫌いな子の中に特に頻繁に俺をからかう子がいた。(仮にA君としよう。)

ある日俺が下校しているとA君がいつものごとくからかってきた。

たぶん俺はあまり相手にはしなかったと思うのだが、それに腹を立てたA君は俺にツバを吐きかけてきた。

これもたぶんだが、そのツバは俺の腕にかかった。

さすがに俺も怒ったが、ちょうどその場所が彼の家のそばだったので、彼はそそくさと家に入っていってしまった。

悔しくて悲しくて、俺はそのままとぼとぼ家に帰った。

その日はちょうど土曜日で父親が家にいた。

俺はその出来事を父親に話した。

すると父親は怒り始めた。

A君の家に抗議の電話をすると言い出した。

俺は必要以上にこの事件を荒立てたくなかったし、なんだか恥ずかしい思いがして必死に父親を止めた。

この時俺は泣いていたと思う。

それに気を悪くしたのか、今度は父親の怒りの矛先は俺に向かった。

父親は何より人の心の弱さが嫌いだったのだ。

それが例え小さな子供の心でも・・・。

「なんでやり返さなかったんだ!?」

「そんな弱さは認められない。」

そういうニュアンスのことを言われた気がする。

しかし、その時の俺はただ共感して欲しかっただけだった。

同級生に嫌なことをされた。だからとても悔しくて自分が惨めで悲しかった。

それを受け入れて欲しいだけだったが、そういう思いは父親の言う弱さだったのだろう・・・。

 

さて、これを読んだあなたは、こんな話をして何になるのかと思うかもしれない。

でもね、俺と同じような経験をしている人は、今この国にたくさんいる。

世間一般が考えるような精神病院に入院するレベルの重度の精神疾患患者以外にも、本当はもっとたくさん心に闇を抱えている人がいる。

間違いなくいる。

親に隠れてリストカットをする人

嘘の言葉と知りながらも優しい言葉にすがるしかない人

心の空白に気付かないフリをして日々の仕事に没頭する人

みんなと同じじゃなきゃダメだと自分を押し殺して生きている人

この社会の中に数え切れない程いっぱいの孤独と痛みがある。

 

「自分には家族もちゃんといて、何不自由なく育ってきた。」

「自分は普通なんだ。」

「自分がつらいって認めたらもっと悲惨な経験をしている人に申し訳がない。」

もうそういう言い訳で自分の気持を隠すことはやめようよ。

これを読んで何かを感じたのなら、あなたは十分につらい経験をしてきてるよ。

まずは自分がつらかったことを認めてあげてよ。

 

俺には今、愛する妻がいて、妻が俺のメンタリティを全面的に認めてくれる。

俺の心の傷はすべて妻が癒やしてくれている。

その逆もしかりだ。

やはり妻もメンヘラなので、俺が妻のことを支えている。

お互いにそういうことができるようになって、ようやく自分のやりたいことがやれるようになってきた。

周囲の反対を押し切り会社を辞めて自分のやりたいことをやっているし、全力で妻の心と向き合うことができている。

確かに経済的にはとても不安定だが、今のこの状態は俺の人生の中で最も心が安定している状態だ。

つらいことがあっても妻がいるからあまり怖くない。

人それぞれ幸せの形というのはあると思うが、俺と妻にとってはこれが幸せなのだ。

 

欠陥だらけの人間だけれど、こうして俺と妻は幸せになれた。

だから、あなたがどんなに自分を嫌いでも、自分を産み落としたこの世界が憎くても、生きていればあなたが幸せになるチャンスはどこかに転がっている。

それを拾えるか拾えないかはあなた次第だ。

俺の場合は、病的ではあったがプライドを持ち、主体的に行動し、とにかく人を愛することだけはやめなかった。

そしたら妻に巡り合って幸せを手に入れることができた。

 

この社会にはひどいやつがいっぱいいる。

あなたを傷つけるだけ傷つけて、平然と捨て去って行くやつもいる。

心ない言葉であなたの心を踏みにじるやつもいる。

そんなやつらに奪われ続けないためには、自分の行動の責任はすべて自分で取ろうという意識で主体性を持つしかない。

そして自分を過小評価せずに、良いところも悪いところも客観的に見据えることだ。

人間なんだから良いところだって悪いところだって両方あるのが当たり前。

それをしっかり理解できていればあなたは今よりも魅力的な人間になるので、あなたを受け入れてくれる人が現れる可能性はものすごく上がる。(余談:古代中国の兵法書で有名な孫子も「彼を知り己を知れば百戦危うからず」と言っている。相手を知って自分を知っていれば負けることはないという意味だ。良い結果が欲しいなら相手だけでなく自分のこともしっかり理解する必要があるということだ。ちなみに俺はこの孫子を始めとした歴史とか戦略論とかが大好きなのだ。このブログの主要な読者であろう若い女性からすればとても頭の固い人間なのだ。)

 

白馬の王子さまはどんなに待っても現れない。

だったらせめてズブズブ共依存関係のゴミクズ男はポイっと捨てて、普通のまともなパートナーを見つけられるように前向きになろう!!

メンヘラの妻と接する上で気をつけていること

メンヘラはなかなかどうして難しい。

しかし、適切なケアがあればたとえメンヘラであっても心の安定を得ることができる。

ただ、間違いなく自分一人で心の闇から抜け出すことは難しいので、周囲の人間の手厚い支援が必要になる。

そこで今日は俺がメンヘラの妻と接する上で気をつけていることを書こうと思う。

メンヘラと付き合っているor結婚している人は是非参考にして欲しい。

また、自分がメンヘラだと思う人も、周りの人に対してこういう風に接して欲しいとうまく伝えられれば心が安定することにつながるので参考にして欲しい。

 

 

①常に一貫した態度を取る

これは一番大事なことかもしれない。

メンヘラの心はいつでも不安定だ。

常に親の顔色を伺い続ける幼少期を経験してきているので、たとえ大人になったとしてもその癖が抜けていないことが多い。

心の中で常に自己否定が渦巻いており自我が拠って立つ基準が存在しないので、周囲の言うことに大きく影響されやすい。(ただし、依存している対象を攻撃されたと思ったら強烈な反発をすることもある。依存対象に自我を明け渡しているからだ。)

これがメンヘラの生きづらさを作る原因の一つになっているだろう。

そこで、メンヘラと向き合おうとしている人は一貫した態度をとらなければならない。

ほんとに一貫した態度を取ることは大切なので要注意ポイントになる。

特に気をつけたいのがメンヘラと喧嘩をした時だ。

喧嘩をする前には愛していると言っていたのに、喧嘩をした時にはお前なんて嫌いだって言ったとする。

そうするとメンヘラの心はものすごく乱れる。

どうすればいいかわからなくなってしまうのだ。

普通の人ならそれ以外の時に愛情表現をしていれば、喧嘩の時にちょっとくらい酷いことを言ってもそこまで気にしない。

しかしメンヘラの場合、その時の言葉で自分の全てを否定されたような状態になってしまう。

自我を支える軸がないので、自分を否定すると思われる言動に過剰に反応してしまうのだ。

それだけならまだマシだが、さらに悪いことにいつもは自分を肯定してくれる人が自分を否定したと思った時にはとてつもなく強烈な自己否定が始まってしまう。

その自己否定から自分の心を守ろうとするために、相手を強烈に否定して自分は悪くないと思おうとするのだ。

(これは補足だが、上記のような強烈な反発をする時にはメンヘラの心はものすごく乱れているため、普通の人から見たら意味のわからない言動をすることがある。いきなり謝りまくったり、次の瞬間には自傷行為をしようとしたり、そのまた次には激しくこちらを罵ったり、挙げ句の果てにその場から逃げ出したり・・・。しかし、そういう言動をすることは激しい自己否定から逃げるための心の働きなのだ。これを理解していないとこちらが参ってしまうので覚えておこう。)

そういうことが積み重なっていくと、メンヘラの心は安定することができない。

メンヘラがメンヘラではなくなるということはつまり心が安定するということなので、メンヘラの心が乱れるような不安定な言動はできるだけ控えよう。

 

 

②とにかく褒める

メンヘラで有ろうと無かろうと、人間一つくらいはいいところがあるものである。

それを褒める。

とにかく褒めちぎる。

メンヘラと付き合う時にはこれが重要だ。

前述のようにメンヘラの心には常に自己否定の嵐が吹き荒れているので、それをやめさせなければならない。

そのためにはとにかく自己肯定感を高める必要があるので、多少無理にでも褒めまくるのがとても効果的だ。

たとえば俺の妻は絵を描く。

それもあってか結構感性が優れているというか、感情が豊かだと思う。

俺はそれを褒めまくっている。

もちろんそれが本当に妻の好きなところだからwin-winなのだとは思う笑

褒めまくって困ることは何もないので、別に10分に一回ペースくらいで褒めてもいいと思う。わりとガチで。

ただここで注意すべきなのは、先ほど話した一貫性の問題だ。

今日まで褒めたのに次の日からは褒めるのに疲れて意地悪なことを言ったりしたら逆効果なので気をつけよう。

 

 

③愛情表現をいっぱいする

これもとても大事だ。

その愛情がどんな形でもいい。

親子愛でも男女の愛でも友人としての愛でもなんでもいい。

メンヘラにはとにかく愛が足りないのだ。

だから、安定的な形で愛情を向けてあげられればそれだけでだいぶ良くなる。

この「安定的に」というのが大事だ。

ところで、多くの場合メンヘラの親もまたメンヘラである。

メンヘラな親が、一貫した愛を子供に注いであげることができないので、その子供もまたメンヘラになってしまうという構図ができてしまっている。

まあつまりここでも一貫性が大事になる。

継続的に注がれる愛がメンヘラの心の傷をふさいで前を向かせることができるということだ。

 

 

④子供の部分を認める

だんだんメンヘラが心を開いてくると、依存が進行していく。

さらにその段階も落ち着いてくると、だんだん幼児性が出てくる。

メンヘラが治っていく過程というのはメンヘラにとって子供時代をやり直すという面が強いので、どうしても子供としての振る舞いが発生せざるを得ないのだ。

この段階を経験しないと絶対にメンヘラが良くなることはないので、向き合うならばしっかり受け入れよう。

子供みたいなことを言っても本当にそれを言ってるメンヘラは子供(これ重要!)なので認めてあげよう。

 

 

実際ここまでできればほんとにすごいと思う。

ここに書いてあることをしっかり守れるなら悪くなることは絶対にないから、信じてくれていい。

最低3年くらいは継続してあげてね。

不足を知るということ

人間の欲望に際限はない。

 

放っておけばずっと足りない何かを求め続ける。

 

特に今、モノも欲求も飽和状態にあるこの社会で何かしらの満足を得るというのは難しい。

 

ごく普通の人々でさえそうだ。

 

心に闇を抱えた人間にとっては言わずもがなだろう。

 

メンヘラというのは本当に悲しいものなのだ。

 

 

しかし、タイトルにある「不足を知る」ということを考えると、少し捉え方が変わってくる。

 

そもそも、

不足の逆、つまり満たされるということは相対的な感覚だ。

 

何かが足りないという「不足ありき」で発生する感覚だ。

 

不足によって満足が生まれるという逆説的な話だ。

 

 

そう考えると、深い意味での「満たされた感覚」というのは、より不足を知っている人にのみ理解できると言えるのかもしれない。

 

 

ところで不足を知っているというのは、どういうことだろうか?

 

俺の考えでは、それは究極的には愛情の不足のことではないかと思う。

 

どんな人に愛情が不足しているのかというのを考えると、つまりそれはメンヘラだ。

 

メンヘラになるかどうかは、ほぼすべて幼少期の経験で決まる。

 

(成長した後に経験したことでメンヘラになったと思っている人はこう考えてみよう。

 

思春期や成人後にあなたを傷つけた人がしたことと同じことを別の人がやったとしよう。そうしたらあなたはどう思う?

たぶんあなたは同じように傷つくはずだ。

それはつまり、その人だから傷ついたのではなく、その行為によって傷つけられたに過ぎないということだ。

それに対して幼少期の傷というのは、ほとんどが親の影響によって生まれる。

別に他の人が何かをしても、そこまで傷が残ることはない。

それは親が子供にとっての安全基地の役割を果たすからだ。

子供にとっては親に傷つけられるというのは、言い換えれば安全基地を脅かされることになる。

この安全基地を脅かされるということがとても大きなストレスを子供の心に与えるので、幼少期に親によって傷つけられたことの影響はとても大きいのだと言える。

詳しくは、岡田尊司の「愛着障害〜子供時代を引きずる人々〜」という本を読んで欲しい。この本マジでいいから!!)

 

 

幼少期の経験により愛情の不足をより強く感じているメンヘラは、普通の人と比べてより不足を強く感じている。

 

だから、その不足が満たされた時の幸福は何ものにも代えがたい大きなものになるのだ。

 

 

現に俺と妻は今とてつもない幸福の中にいる。

 

振り返ってみるとこの幸福は、幼少期から続く慢性的な虚無感と深い悲しみと怒りと孤独の中から生まれたのだと思う。

 

そうとしか言いようがない。

 

そう考えると、自分に精神疾患の傾向があることも妻が辛い経験をして来たことも、報われるような気持ちになる。

 

自分が妻を深く理解し、妻が俺を受け入れてくれることがとても素晴らしいことだとより強く感じられる。

 

幸福は、不足を知っていることによってより深くなるのだ。

 

 

もしあなたがとても大きな苦しみを抱えて生きているなら、いつか幸せを掴む時にはその幸せは普通の人が思っている幸せとは比べ物にならないほど大きなものになる。

 

これだけは本当に断言できる。

 

だから、まだ諦めないで欲しい。

 

とりあえずはその苦しみを生き抜いて、何かが手に入れられるまでもがいてみて欲しい。

 

そうしたらその時には今日俺が書いたことの意味がわかると思う。