kenjunsan’s blog

メンヘラと呼ばれる人へ

自己愛の系譜(とミーム)について

精神疾患は遺伝する。

遺伝という言葉には2つの種類がある。

1つ目は誰でもすぐに思いつく「生物学的遺伝」のことだ。

精神疾患にかかりやすい脳みその構造が遺伝子レベルで受け継がれるということだ。

これについては特に説明もいらないだろう。

2つ目が今日のテーマだ。

「文化的遺伝」

いわゆるミーム(文化的遺伝子)を媒介とした習慣や言動や思想の遺伝だ。

(以下余談とミームについての補足 半ば俺の趣味を語りたいだけだから読みたい人だけ読んでくれ。 ミームって言葉がよくわからない人は、ファッションのこととかを考えてみればいい。たとえば、雑誌やテレビでモデルがオシャレな服を着ている。にこるんでいいや。妻にぱっと思いつくモデルを聞いたらにこるんが出てきたからな。で、にこるんが雑誌に載ると、巷のJKたちはそのスタイルを真似するよね?メイクだったり服装だったり。さらににこるんの真似をしたJKたちが勝手にツイッターやらインスタで拡散する。そうするとそのファッションはまた別のJKたちに真似されて更に更に広がっていく。つまり、より真似されたファッションはより真似されやすくなるんだな。真似される機会がより増えるから。んで、その真似をするという行為が行われたときこそ、文化的遺伝が起こったまさにその瞬間なのだ。ちょっと整理すると、この場合にはファッションが真似されたときに文化的遺伝が起こっており、ファッションは”文化的遺伝子=ミーム”であるということだ。これは別にファッションじゃなくてもなんでもいい。新商品のアイデアでもいいし、政治的思想でも今日の夕飯の決め方でもなんでもいい。この時の「ファッション」「アイデア」「政治的思想」「今日の夕飯の決め方」が”ミーム”という言葉に当たるのである。ところで、”ミーム”には強弱がある。これについては生物学的遺伝子と同じなのでそこから見てみるとわかりやすいかもしれない。自然界では弱いものは淘汰され、強いものは繁栄を謳歌する。ここでいう強弱は、環境への適応度合いが高いか低いかっていう話なのだがわかりにくくなるから割愛する。まあ要は弱肉強食だ。で、強い生物は結果的により多くの子孫を残せる。これと同じで、文化的遺伝においてもより強い”ミーム”はより多くの模倣者を獲得できる。いや、多くの模倣者を獲得できた”ミーム”こそ強い”ミーム”だと言うべきか。ところで、生物学的遺伝子の話にちょっと戻すと、生物の体は遺伝子を次の世代に伝えていくための乗り物にすぎないなんていう主張もある。”ミーム”という考えそのものを世に知らしめたリチャード・ドーキンス自身がそう言っているのだ。これは文化的遺伝についても言えることで、そういう意味では、にこるんは多くのJKの人気を一身に集めるとても強い”乗り物”であるとも言える。まあ興味がある人はドーキンスの「利己的な遺伝子」を読んでみてくれ。 妻には、これだけで一つ記事を書けばいいんじゃないかと再三言われた(笑)また気が向いたら語り出すかもしれない。 余談終わり)

 

 

 

あっ。精神疾患の遺伝の話でしたね、はい。

先日の記事で父親の話をしたね。

kenjun.hatenablog.com

 現在俺は妻とじいちゃんとばあちゃんとひいばあちゃんと一緒に住んでいる。

父方の。

父親を育てた人たちだ。

だから俺も色々聞いてみることがある。

「父親はどんな子供だったのか」

「親子喧嘩はしたのか」

「子供の時の父親へはどんな接し方をしてたのか」

まあ色々聞いた。

それでよくわかったのだが、この人達は全然父親を理解していないようだ。

そればかりか、腫れ物扱いしているようにしか思えない。(これに関しては若い時によく暴れた父親も悪いのだが・・・。)

自分の子供なのにこれだ。

そういう話をした時、俺は無責任な親だとは思いつつも、年寄りをいじめるわけにはいかないのでこうして一人思索にふける。

 

 

ちなみに、じいちゃんはめちゃくちゃモラハラ爺だ。

いつもばあちゃんを怒鳴りつけている。

ほんとにいつも怒鳴ってる。

最近のトレンドは目薬だ。

じいちゃんは白内障の手術をしたのでここひと月くらいずっと目薬をさしている。というかさしてもらっている。ばあちゃんに。

目薬くらい自分でさせよと思うのだが、とにかくばあちゃんにやってもらいたがる。

朝昼晩の1日3回の処方なのだが、年寄りは朝が早い。

特にじいちゃんはダントツで早い。

日にもよるが、目薬をさしてもらうために5時くらいにばあちゃんを起こす。

その声がとてもうるさいので、毎朝俺も起こされる。

で、さしてもらったらさしてもらったで、さし方が気に入らないだのうまく入らなかっただの文句を言う。

その声もとてもうるさい。

目薬だけならまだましなのだが、ばあちゃんのやってることにはどんなことでもケチをつけたがる。

たとえば夕飯を作ってるとき。

ばあちゃんが作ってると、「遅い」とか「まだか」とかずっと隣で文句を言ってる。

できたらできたで、次は味に文句をつける。

そんなのが50年も続いてたら、言われてる方も頭がおかしくなるのが道理だ。

たしか10年くらい前だったと思うが、ばあちゃんは一時期心療内科に通っていたことさえある。

 

 

ただ、ばあちゃんにも問題はあって、どうにも天然というか常識がないというか、ちょっと変わっている。

ばあちゃんはずっと仕事をしていた。(つまり、父親は共働きの家庭で育ったのだ。)

で、働いてる間は家事を一切やらず、ひいばあちゃんがやっていた。

父親とその弟であるおじの世話もほとんどひいばあちゃん任せだったそうだ。

そのせいか、おじは自分の母親は(おじにとっての)ばあちゃんであるとよく言う。(俺にとってはひいばあちゃん)

昭和の時代にも関わらず家のことにあまり関心を持たないばあちゃんが許されたのは、この家はばあちゃんの実家で、じいちゃんが婿養子だったからだろう。

それもあってじいちゃんはこの家で肩身の狭い思いをしていたようだ。

ことあるごとに自分は婿養子で軽んじられていたんだという趣旨の話をしている。

ただ、それを加味してもやはりじいちゃんの振る舞いは目に余るし、ばあちゃんがかわいそうになる。

 

ところで、じいちゃんを観察しているとよく思うのだが、じいちゃんはばあちゃんに母親役を求めている。

自分の希望通りにならないとすぐ癇癪を起こす様なんかは、まるで親の前で駄々をこねる幼児だ。

でも、先述の通りばあちゃんはあまり家庭に関心を持つ人間ではないので、ここにフラストレーションが発生する。

どんなに母親役を求めようと、ばあちゃんは子供を産んでも母親になれなかった人だ。

そんな望みが叶うはずがない。

そこから父親の歪みが発生したと言えるだろう。

 

ちなみに、じいちゃんは7人だか8人だか兄弟がいる。

しかもそのうち一人はじいちゃんの双子の弟だ。

親の愛を奪い合う競争相手が多かったので、どうしても親の愛が十分ではなかったのだろう。

今のばあちゃんとの関係を見ていると特に母親の愛が。

俺はじいちゃんの母親まではよく知らないのでそれ以上掘り下げて考えることはできないが、おそらくそのあたりがじいちゃんの人格形成に多大な影響を与えているのだと思う。

ただ、じいちゃんにしても母性の渇望ってのがどうも自己愛性人格障害くさい。

父親や俺がそうであるようにじいちゃんもそこに苦しんでいる一人だったようだ。

 

そんな感じで自己愛の系譜を辿ってみたのだった。

え、あれだけ語っといてミーム関係なくね?