妻の育て直し②
妻はインスタをやっている。
このアカウントね。
https://www.instagram.com/koha_taro1123/
俺たちが付き合ってから結婚を経て今に至るまでの中で、とくに思い出に残っていることを絵に描いて投稿している。
実はこの試みは最初俺が勧めたことではじまった。
理由は2つある。
ひとつは妻に自信がつくようにするため。
ふたつめは妻が自分の好きなことをやって生きていけるようにするためだ。
今まで自分自身には何もないと思っていた妻だったが、この活動の中で自分を持てるようになってくれたらと思って背中を押してみた。
それで最近このアカウントの人気が前よりも出てきて、いいねが何百個もつくようになってきた。
いやー
まだまだ先の道のりは長いけど、ここまで来るのにもけっこう苦労した笑笑
もともと妻は、これまでなんども触れているように自分のことが大嫌いだった。
一般的に、自分のことが嫌いだといろいろなことがうまくいかなくなる。
ちょっとでも失敗すると自分を責めてしまうからだ。
自分を責めることはとても大きなストレスになるので、傷つかないために最初から自分を責めるようなことは、なかったことにしようとする。
それが最初から失敗しないために何もやらないほうがいいという思考の原因になったり、新しくはじめたことをすぐにやめてしまう元凶になったりする。
妻の場合には、絵を描きはじめた頃にそういうことがよくあった。
それまで黙々と絵を描いていたのに、急にやめてしまうのだ。
そういう時にどうしたのかと聞いてみると、
「うまくいかないからもう嫌だ!」
と言っていた。
でもそもそもヘタなのなんて当たり前のことだ。今まで描いてこなかったんだから。(※俺自身は、妻の絵は可愛らしいから好きだ)
小学生の時は絵が好きで友だちと一緒にずっと描いていたそうだが、それ以降は描くのをやめてしまったらしい。
たぶん絵を描くのをやめた理由は大したことじゃないと思うが、問題なのはそれ以降の妻が自分の好きなこととかやりたいことを考えずに生きてきたことだ。
そもそも俺は妻のメンヘラがただ治ればいいと思っているわけではないのだ。
もちろん自分のことを好きになるとか、自分を責めなくなるとか、そういうことはとても大事だ。
でも、それだけでは人は生きていけない。
妻はいずれ生まれる子どもの母親にならなければならない。
もちろん2人で一緒に育てるのだが、子どもの心が健康に育つためには母親の役割がものすごく重要なのだ。
仮に俺がひとりでどれだけ親の役割をやれたとしても、父親だけでは子どもの心は育たない。
(その辺が気になる人はこの本読んでね↓)
だから妻も自分自身の足でこの世界に立って歩かなければならない。
苦しみもいっぱいあった。
憎しみもいっぱいあった。
それ以上にとてつもない孤独があった。
それでもそれを乗り越えて生きなきゃならない。
それができなければ俺たちは子どもを産まない。
子どもに同じ思いはさせない。
自分たちにとって最も幸せになってほしい存在が苦しむのは嫌だ。
たぶん自分が死ぬよりも苦しい。
だから自分たち自身が幸せにならなきゃならない。
そのためには妻が自分の生きる道を自分で作る必要がある。
だから、妻は絵を描くことにした。
妻は絵を自分自身のために描いている。
自分のために何かをするということは、今までの人生で一度もできなかったことだ。
それができるようになって、一定の成果が出始めている。
俺は本当にそれが自分のことよりも嬉しくて、妻のインスタを見るたびにニヤニヤしてしまう。
たぶんこのままいけば妻は絵で自分の人生を切り開いていくと思う。
まだまだ弱音を吐いたり泣き言を言ったりするが、愛のムチととびきり甘い言葉のアメを与えまくって妻の自立を応援してあげようと思う。
よければインスタ見てあげてね。
依存しててもメンヘラでも、絶対に幸せになれる
実は、妻もブログを書いている。
直近の妻の記事があまりにもよかったので、ぜひ俺のブログを読んでいる方にも見てもらいたい。
https://chocochiprin.hatenablog.com/entry/2018/06/23/220902
あえてはっきりいうが、一部の男はメンヘラをすぐにヤレる都合のいい存在として扱っている。
俺はほんとうにそういう男を皆○しにしたいくらい憎んでいる。
俺の大切な妻の心を踏みにじった奴らだから
だ。
妻の過去を聞いたときは、自分でも自分の怒りに驚いたよ。
妻は高校時代にある男に襲われた。
大したことのない男だ。
人を愛したことも、人に愛されたこともないようなやつだ。
しかし妻は自分自身を愛せなかったことに加えて、性的な意味で早熟だった。
性への興味と身体だけでも求められてしまうことの喜びに、いつしか自分の身体を差し出すことが普通になっていた。
そのゴミクズのような男も、おそらく誰からも愛されない人生を送ってきた。
だから、自分には価値がないと思っていた妻とそのゴミは性的な関係を通した共依存におちいっていたようだ。
妻は、その男を心底軽蔑しながらも、身体だけでも求められることの魔力にはまってしまっていたのだ。
妻自身はそれらの行為をとても醜くて汚いものだと自認していた。
それによってなんどもなんども妻の心は引き裂かれた。
なによりも、そんな穢らわしい自分をそれまでよりももっと嫌いになった。
もっと悪いことに、その頃から妻は性的な関係によって、形だけは足りないなにかを満たせるようか気になってしまっていた。
実際の数は知らないが、そのゴミ以外にも冒頭であげたようなゴミクズどもと関係を持ったようだ。
そんなことをしてもなにも変わらない、自分はもう抜け出せないところまで落ちていく、純粋だったころに夢見ていた幸せは遠のいていく…。
それくらい妻もわかっていた。
それでもだ。
それでも、一度堕ちてしまった人間というのは自分の力で這い上がることはできないのだ。
その話を聞いて俺が考えたのは、
そんな奴ら、生爪を剥いで、1センチずつ身体を切り刻んでいって、生まれたことや生きていることを後悔させて地獄の底に叩き落としてやりたい。この世に存在しうる最大の苦しみを与えてやりたい。ということだった。
本気でそう思った。
奴らは人の心にふれたこともないし、その苦しみや憎しみや哀しみを見つめたこともないだろう。
俺はね、ぜんぶやったんだよ。
妻の心に直接この手でふれた。
何度も何度も。
その度に大丈夫だということを伝えた。
自分に出来うる限りの優しい声で、この世で一番愛していると伝えた。
妻が眠るまで何度でも。
だが、一緒に暮らすようになっても、妻は毎晩のようにフラッシュバックを起こして泣いた。
夜寝ていると、いきなり妻は泣き叫ぶことも頻繁にあった
この世で一番愛している人がここまで苦しんでいる。
自分が苦しくないわけがなかった。
俺も頭がおかしくなりそうになった。
妻がこの世で最も醜い部類の男に、自分の身体を差し出している姿が何度も頭をよぎった。
そのたびに傷ついていくその心も、生々しく想像できた。
夕食を食べていても、仕事をしていても、一緒にお風呂に入っているときも、妻を抱いているときでさえも頭に浮かぶのはそんなことばかりだった。
人間にはもっともつらい記憶を何度も繰り返して再生する機能があるのだが、それはそのつらかった経験を乗り越えるためだそうだ。
だが、その時の俺にとってはその機能が、最悪の光景を頭に焼き付けることにしかならなかった。
その頃はほんとうに毎日苦しかった。
最低のゴミどもを憎むのと同時に、妻のすべてを愚直に愛せない自分の弱さをひたすら呪った。
それでも俺は、妻にはこの世で最大の優しさと愛をあげたいと思った。
そうすることでしか妻の傷を癒すことはできなかったし、自分自身の弱さに打ち勝つことはできないと思ったからだ。
ほんとうにそれだけだった。
そうやって過ごしている間も妻は自分を責め続けた。
妻はただでさえ自分が大嫌いなのに、俺を苦しめてしまっていることに自責の念を強く感じていた。
その頃の妻は自傷行為のようなこともよくやっていた。
自傷行為を見つけるたびにものすごく悲しくなったが、妻はもっと苦しい経験をしてきたのだと思うしかなかった。
俺たちの心は文字通り血まみれだった。
しかし、俺たちはそんな苦しみになんてぜったい負けたくなかった。
妻はたしかに傷つけられ、尊厳を踏みにじられたが、もっとも大事な感情は失っていなかった。
妻の中には、間違いなく俺に向けられる愛が存在しているのだ。
自分を愛せない屈折した人間である俺にとって、これほど嬉しいことはない。
俺の話を少しすると、
妻に会う前に付き合っていた子には、自分のすべてを受け入れてほしいと思ってしまい、失敗した。
愛情を押し付けて、それと引き換えに俺のすべてを愛してほしいと願った。
自分の親になってほしいとすら思っていた。
でもそれは、その子にとってとてつもない重荷だっただろう。
俺自身そういう人間だった。
だから、誰かに受け入れてもらえるはずはなかった。
誰にも理解されずに一人きりで生きていくはずだった。
だが妻は俺のそういった部分を受け入れた。
泣きじゃくる俺を強く抱きしめてくれた。
この時はじめて心に安らぎが生まれたと思う。
妻が俺を受け入れたことに関しては、妻がメンヘラだからだとか、依存しているだけだとか、そういうことはどうでもいい。
俺の心はそんな形だけの正しさを求めていたのではない。
ただ醜く、弱く、どうしようもなく孤独な俺を受け入れてほしかっただけだ。
幼少期になにかが足りなかったせいで大人になれなかった俺の一部を認めてほしかっただけだ。
妻はそれをやってくれた。
だから俺は妻のことをほんとうの意味で愛するようになった。
妻のことを愛している。
愛しているからには幸せでいてほしい。
いや、それよりも一緒に幸せになりたい。
二人で幸せな人生を歩みたい。
過去にも、家族のしがらみにも邪魔されたくない。
ましてや、妻を傷つけた奴らに、今の二人の幸せを傷つけさせたりなんかしない。
そのことが、俺の中で強い決意につながった。
自分が負けてはならない。
自分がこの苦しみを乗り越えなければ、一番大切な人が幸せになれない。
だから、すべて受け入れた上で愛を伝え続けた。
その甲斐もあって、今では二人ともかつてのような憎しみにとらわれることはもうなくなった。
妻の空っぽだった心も満たされつつある。
それがなによりも俺たちの幸せの証拠だと思う。
妻の心の穴が塞がりつつある。
最高なことだ。
このブログや妻のブログを読んでくれればわかるが、俺たち夫婦はこれまで心の問題にものすごく真剣に向き合ってきた。
最初はお互いの心だけだったが、今ではまったく関係ない人を見ていてもある程度のことがわかる。
この人はこんな苦しみや問題を抱えているとかだいたいわかる。
たぶん自分の心とお互いの心に深く深く潜り込んで理解のために本気で向き合ったからだと思う。
だから、もし困っていたらとにかくコメントでもなんでもしてみてほしい。
俺に言いにくければ妻の方でもぜんぜんいい。
ここに書いていることや俺たちが発信していることは、これ以上ないくらいの苦しみの中から手に入れたものだから、同じように苦しんでいる人がいるなら少しでも還元したいと思ってる。
その苦しみからは一人では絶対に抜け出せないから、できる範囲で人に頼っていいんだよ。
もしなにか俺たち夫婦が役に立てそうだったら教えてね。
主体性を持とう
主体性はこの世知辛い世の中で生きていくためにものすごく大事なものだ。
そもそも、あなたの人生は誰のものなのか?
言うまでもなく、あなたのものなのだ。
あなたの親のものではないし、あなたが依存しているクズ男のものでもない。(もしかしたらクズ女かも…。)友達のものでもないし、上司のものでもない。
そんなやつら全部いなくなったって、あなたはあなただ。
しかし、メンヘラってのはその辺の感覚がぶっ壊れてることが多いので大変だ。
自我境界という言葉がある。
自分と他人の間に存在する良くも悪くもどうしようもない壁のことだ。
健全な精神を持っている人はこの壁をしっかり持っていて、自分と他人が別々の存在であることを認識できている。
この壁がうまく機能することで、他者に対して譲れないものと譲歩できるものを分別することができ、自分の自我をうまく保つことができるのだ。
しかし、メンヘラの場合はこの壁がものすごく小さいことが多い。
というか、全く存在しない場合すらある。
で、この壁がないと、他人の言動がとてつもなく気になって仕方なくなる。
他人の一挙手一投足に自分の気持ちが左右されてしまい、常に周りに振り回されてしまう感じだ。
メンヘラがいつでも他人の顔色を伺ってしまうのはこのことと深く関係している。
このブログにたどり着いたということは、あなたも自我境界がとても曖昧なんじゃないだろうか?
だからいつも他人の顔色が気になってそわそわしてしまう。
まあその根底には例のごとく、自己愛の欠如と自己肯定感の不足があるのだが・・・。
自我境界が曖昧な状態だと周りの意見に振り回されるので、自分の意思がなくなってしまう。
自分の意思ってのがつまり、「主体性」のことだ。
で、これがものすごく厄介な問題で、
自我境界が曖昧だと、人に依存しないと生きていけなくなってしまうのだ。
そうすると自分の人生のはずなのに誰かのために生きる人生になってしまう。
誰かのために生きるのはたしかに立派だが、それは自分で自分のことがしっかりこなせる自立した人がやることだ。
依存的な人が自分をなげうって人助けをしたって、ただの自暴自棄にしかならない。
だからまず自立しよう。
自分と他人の間にある絶対的な壁に気づこう。
悲しいけれど人は生きている限り独りなのだ。
(ちなみに人類補完計画ってのはこのことから問題意識が始まっていると思う。自分と他人は違う。でも独りは寂しいからつながりたい。いっそ自分と他人の自我のあいだにある境界を取っ払ってひとつになりたい。みたいな。)
でも、自分と他人は違うからこそ価値がある。
自分を認めるから他人を認める余裕が生まれ、他人を認めるから自分も認められる。
それが人と人の本当のつながりだ。
まあなんだか説教臭くなってしまったが、大事なのはこの一つ前の記事に引き続き自我の持ち方みたいな話がテーマでした。
ここまで読んでくれてありがとう!